こんぴら燈籠・壷井六五郎
こんぴら燈籠
献灯や常夜灯として使用されていた燈籠。こんぴらさんに通ずる南海道への道しるべとして使用されていたものや、金毘羅参詣が盛んになってから講中によって建立されたものがあります。旧南海道沿いにある3基を含め、十河校区に全部で9基あります。様々な事情や開発で、当時より移設されているものもあります。
庶民の道案内役、夜は明かりを灯し、道中の安全を願って建立されました。燈籠には、石灯籠型と自然石型灯籠があり、自然石型灯籠には、八日月・満月などが彫られています。また、神社境内に置かれているものは、火袋に動物や雲の模様が彫られています。立ち止まりじっくりと観察してみては。
★ 石灯籠型の5基はこんぴらさんへの道しるべ。
笠に 金 、竿に御神燈・御奉燈と刻まれている。
※吉田神社西北隅の燈籠は、江戸時代金毘羅参詣が盛んになり、夜中に南海道(現市道川島吉田線)を往来する参拝者の為に壷井家が建立したと思われます。
※三日月は、三日月の日に寄り合いをしようという目印。
※お講:その地域の皆でお金を出し合って順番に使うという風習があった。
江戸時代の大庄屋 壺井六五郎忠弘
名は忠弘、六五郎はその通称です。六五郎、実は岡安通の子ですが、十河村の叔父、壺井忠清の養子となって、壺井家を継ぎました。その後、住まいを山田郡十河村に構えることになります。
人に対してねんごろで人情に厚く、節約にも努め、農業にも力を注ぎました。元々家は裕福ではありませんでしたが、彼の善い行いはめぐりめぐって広まりました。元々無名でしたが、秩禄の多くを施し与えたので、人々から大変慕われました。親戚の者も郷里で困った人々をよく助け、長年雇っている奉公人には土地と家を買い与えました。また、金銭を献上することを重んじ、郷里のために役立てました。これは、昔の人が「殖財能施(財を殖やしてよく施す)」というところのものです。喜んだ人々は自分のものを差し出し、彼のもとを出入りする人は数え切れないほどでした。
その財産家の故、安永6年(1777)村の里正(庄屋)となり次いで山田郡の大里正(大庄屋)となり、郡内で広く政治的な功績を挙げました。特に、灌漑用水の需要拡大に伴い、池溝(うなて:田に水を引くための溝)の普及改修事業に努め、神内池の改修工事の他、木太の新池や古高松の谷池などの改修も行いました。更に、詰田川では海に近く満潮時には橋桁と海水面が狭く荷物の海上輸送ができなかったため、橋を付け替えて舟の通行に便宜を図りました。
その他、氏神鰹宇八幡神社にも神田を寄付したり、社会福祉のためにつくす所も多かったので、藩でもその功績が認められ、要職に就いていました。
芭蕉の句碑
大庄屋・六五郎が、高松藩主より200石賜った年、供養塔として建立したと思われます。
句は「野ざらし紀行文」貞享元(1648)年8月江戸・吉野・山城・伊賀・翌年に尾張を経て、江戸に帰った旅をまとめた一句です。
【句碑】
野(の)ざらしを
心(こころ)に風(かぜ)の
しむ身哉(みかな)
忠弘誌(しるす)
十川西町壺井家墓所地内
安永6(1777~78)年頃・建立
句の意味は、道に行き倒れて白骨を野辺にさらしてもと、覚悟決めて旅立とうとすると、ひとしお秋風が身にしみること。
この句碑は、香川県にある20の芭蕉翁の句碑の中で最古のものであることがわかっています。六五郎も、里中の人たちのために、野辺に行き倒れても尽くす覚悟と、己の心境を、自然石に自筆、刻ませたと思われます。
※鰹宇神社参道左右にある「狛犬」さん。この狛犬さんは、六五郎の息子六三郎が父の職を継いだ翌年文化13年(1816)に氏子の無病息災を祈願して建立したものです。産の宮の鳥居や正門前の常夜灯、手水舎なども六五郎の寄進です。
大庄屋六五郎
幕末には讃岐国内に約400の村があり、十河村には(東十川・西十川・南亀田・小村)各村を担当する庄屋が1名、山田郡(植田・池田・坂本・蘇甲・三谷・田井・拝師・本山・高松・宮所・喜多(11の郷))は、西十川の壷井忠弘、前田村の前田美雅2名の大庄屋がいました。
大庄屋壷井忠弘は、安永7(1778)年に200石拝命、土塀に囲まれた屋敷に入るには、大人が抱えるくらいの松が屋敷に沿って植えられた、二間余の馬場道通りがありました。大手門・長屋門構えの屋敷内には、政治・経済・生活・文化などを伝える資料がぎっしり詰まった倉がありました。東側に馬洗い池、南側には武術稽古道場・寺子屋などがある大屋敷に住み、郷の行政役を勤めていました。忠弘は、頭はちょんまげ、羽織袴、大小の刀を差して馬又は籠に乗り、家来5人衆を従え山田郡内を奔走し、村々の百姓からの願い出や藩からの通達の役目、年貢や夫役の徴収も大庄屋が行っていました。