古墳・遺跡
西尾天神社古墳
西尾天神が祭られている高さ3m、直径15m余りの土盛りが古墳で円墳と推定されます。
北に延びた尾根中央にある古墳で、神社建築や三角点設置のため、一部破損を受けているものの全体として良好に残っています。墳丘上に散乱している石材は、石室に使用されていたものと思われ、そのことから、石室は既に破壊されている可能性が高いです。
出土遺物が明らかでないため、築造時期等の詳細は不明ですが、墳丘の特色等から5世紀ごろの古墳と考えられます。
高松最大規模の円墳として知られる川島本町高野に所在する高野丸山古墳とともに、高松市を代表する巨大な円墳として貴重です。
小学生レポート
どんな遺跡があるか知っていますか?
私たちの地域には、西尾天神社があります。ここは、学問の神様といわれる菅原道真を祭ったもので、古墳の上に杜が建てられているようです。また、学校北校舎下には西下遺跡(飛鳥・奈良時代の建築跡)があり、新校舎建築時にその遺構が確認されています。
西尾天神社古墳を探検
西尾天神社は、西尾地区の住宅に囲まれるようにあります。全体の広さをメジャーで調べてみると、たて約40m、よこ約20m、高さ約4m、周りが約95mの円形でした。その中央にある古墳は、丸く土を盛った円墳で、直径15m位でした。古墳の一番高いところには、国土地理院の三角点があり、びっくりしました。
まめ知識
地球上の位置や海面からの高さが正確に測定された電子基準点、三角点、水準点等から構成される基準点は、地図作成や各種測量の基準となるものです。
三角点は、山の頂上付近や見晴らしのよいところに設置され、経度、緯度、標高が正確に求められています。
ちなみに、日本で一番高い三角点は富士山山頂の標高3775.5mのところにあります。
西下(にしした)遺跡
十河小学校校内から遺跡発見!!
1400年の時を経て十河の埋もれた歴史が明らかとなる!
2007年6月〜7月にかけて十河小学校校内で、発掘調査が行われました。この遺跡からは飛鳥・奈良時代(1300〜1400年前)の建物跡が確認されたほか、多数の土器が出土しました。
現在、これと同じ時期の遺跡でこれほど大きい建物跡が周辺で見つかった例はなく、7世紀の高松平野では最大のものであることがわかりました。
このときの調査によって明らかになったことはほんの一部です。当遺跡を含め十河周辺には古代の遺跡が広がっている可能性が十分あります。今後の調査によりさらに十河の歴史が明らかになってくることでしょう。
建物跡と溝の方位を調べた結果、方位をそろえていることがわかりました。古代では土地を方形に区画する制度(条里制)があり、かつて高松平野には碁盤目状に広がっていました。西下遺跡はこの土地区画の方位と合うことから、計画的に建物が造られていたことがわかりました。
一辺約60cmの四角い形の柱穴からは、当時の柱材が残っていました。出土した柱材は直径13cm~17cmで、鑑定からカヤとイヌマキであることが判明しました。これらの木材は比較的丈夫で建築の材料に適した種類です。
長さ8.5m以上、幅1.4m、深さ0.6mの溝です。この溝からは多くの土器が出土しました。出土した土器から約1400年前の飛鳥時代のものであることがわかりました。
溝からは、木を鳥形に削ったものが出土しました。弥生時代から古代に見られるもので、まつりやまじないの道具と考えられています。
出土した土器
柱穴の中や溝から土器が出土しました。これらを調べて年代が分かることから、遺跡の時期を決めるものさしです。