十河歴史マップ
小村町にあって、説教所として知られていた。昭和22年新宗教法人として寺号を称す。本尊は阿弥陀如来である。
旧吉田橋西にあり、吉田の庵寺として知られていた。昭和21年6月北海道上川郡下川村で松清山円光寺を開基した宇川円澄が帰県して、昭和22年6月12日中興法城寺を開基し寺号とした。
本願寺第八代蓮如上人の教えを受けた善良が、文明2年(1470)阿波穴吹に一宇を建立したのが草創である。後に山田郡下林村に移居、しばらくして現地に移る。
現在の本堂は、天保15年(1844)第七世智海が建立したものである。鐘楼は大正10年に建立。二層部分に「一切経」を納める経蔵をそなえた珍しい構造である。
高松松平家には、幕末、高松藩朝敵騒動の際、本山興正寺本寂上人のもと光清寺住職も尽力した記録が伝わっている。
開基以来500年余り、十川に移転以来350年の歴史を誇る。
約470年前天文年間に信州から天台の僧定讃が十河城下に移り、天正3年(1575)沙門智源が堂宇を建立して、定讃所持の仏像を本尊とした。城主となった十河存保は、現在の高松市上林町に禅宗東光寺を建立して菩提の寺とした。
一方東光寺は藩主に招かれて高松城下に移転した。後に東光寺の一堂宇を存保ゆかりの檀原に移して、智源の寺と合わせ東光山朔方寺と称し、本願寺末寺となった。東光寺跡出土の古瓦と、朔方寺本堂下から出てきた瓦が、布目十六菊紋軒瓦でまったく同じものだった。松平家からは独礼の寺として優遇された。独礼とは藩主に単独で会見できる資格のことで讃岐の国に六ヶ寺しかなかった。